嶋井家文書の世界
令和5年9月5日(火)~ 11月5日(日)
Ⅱ 嶋井宗室の商業活動
宗室の活動は、確かな史料では天正年間(1573~92)の初め頃から確認できるようになります。当時、博多を支配していた大友宗麟との交渉を通して歴史の表舞台に登場します。宗室は宗麟によって大友領国内の通行自由と税金免除の特権を付与され、商業活動に便宜を与えられました。肥前(ひぜん)勝尾城(かつのおじょう)(佐賀(さが)県鳥栖(とす)市)を拠点に筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・肥前3ヶ国の国境地帯を領する筑紫氏からも領内の関所の通行自由を許されました(史料13)。また、広い人脈を生かして畿内の豪商と交渉し、宗麟に名物茶器を斡旋(あっせん)しています。宗室が扱った品々には沈香(じんこう)(東南アジア産の香木(こうぼく))、金襴(きんらん)・緞子(どんす)、高麗茶碗(こうらいじゃわん)・照布(てるふ)(高麗物(もの)の1つで茶巾(ちゃきん)等に使用)等がみられ、国際貿易と国内流通の結節点であった博多を拠点に、明(みん)・朝鮮(ちょうせん)、国内においては九州から畿内へと広範囲にわたって商業活動を展開していたことがうかがえます。
Ⅲ 博多復興・朝鮮出兵と嶋井宗室
秀吉との親密なつながりを背景に、秀吉が九州の戦乱を収めた後の博多復興や、文禄(ぶんろく)元年(1592)以降の朝鮮出兵において、宗室は重要な役割を果たします。宗室は新たに筑前の領主となった小早川隆景から、神屋宗湛(かみやそうたん)と協力して博多の復興にあたるよう命じられています(史料16)。朝鮮出兵が始まると、博多津内(つない)の蔵をすべて空にして兵糧米(ひょうろうまい)を蓄えるよう命じられました(史料19)。また、宗室自身、秀吉の命令を受けて朝鮮半島に渡海しています。石田三成は宗室の留守中、博多に陣取る軍勢(ぐんぜい)が乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)しないよう、宗室留守宅への陣取りを禁止する通達を出しています(史料18)。
Ⅳ 海外貿易と嶋井信吉・正則
宗室は元和(げんな)元年(1615)8月24日に没しますが、男子に恵まれず外孫の神屋徳左衛門尉信吉((とくざえもんのじょうのぶよし)(史料22)を養子にして跡を継がせます。宗室は生前、信吉に対し、自前で貿易船を仕立て海外に渡航することを戒め、複数の船に小口(こぐち)で融資することを勧め、リスクを回避するよう説いています。信吉・権平正則(ごんぺいまさのり)(史料23)父子はこの教えを守り、みずから貿易船を派遣せずに国内外の貿易商人に「投銀(なげがね)」と呼ばれる資金を貸し付けて利益をあげました。投銀は船が難破(なんぱ)した際には返済が免除されたので、投機的性格が強いものでしたが、貸主(かしぬし)は船舶(せんぱく)・船荷(ふなに)を担保に高利で融資し、貿易船の航海が終了した時に借主(かりぬし)から元利(がんり)とも返済を受けました。「嶋井家文書」には、信吉・正則に宛てた投銀証文(しょうもん)が10通伝来します。これらは返済が滞って嶋井家に残されたものですが、江戸時代初期における海外貿易の実態を伝える貴重な史料です。ポルトガル語で書かれたフランシスコ・カルヴァーリョ投銀証文(史料25)やポルトガル人ニコラオが和文で書いた珍しい証文(史料24)も含まれています。
(堀本一繁)