タイ陶磁器展
令和5年9月5日(火)~ 11月5日(日)
博多への到来
14世紀以降、タイでは、アンコール朝の支配を脱したスコータイ朝、アユタヤ朝のもと、中部タイを中心に窯業が盛んになり、15~16世紀頃に最盛期を迎えます。スコータイ窯では、白い石粒を含む黒味の強い素地に白化粧土をかけ、鉄絵で魚や草花などの文様を描く盤や皿、瓶や人形などがつくられました(写真1)。一方、シーサッチャナライ窯では、青磁や褐釉、白釉だけでなく、鉄絵や白釉と褐釉のかけわけ等さまざまな技法で、瓶、壺、盤、碗、水注(すいちゅう)、水滴(すいてき)、合子(ごうす)、置物などが生産されました(写真3)。また、15世紀中頃になると、アユタヤ近郊にあるメナム・ノイ窯で、輸出する物産をいれる容器として黒褐釉四耳壺(しじこ)が盛んに生産されました。
博多遺跡群では、14世紀後半から17世紀前半にかけて、スパンブリ地方の焼き締め陶器、スコータイ窯の鉄絵の盤や瓶、シーサッチャナライ窯の青磁や褐釉の小瓶、メナム・ノイ窯の四耳壺、アユタヤ周辺で焼かれたハンネラ土器などが出土します(写真4)。これらのタイ産陶磁器は、どのように博多にもたらされたのでしょうか。
中国では、14世紀後半に、元から明へ王朝が交代します。明は、中央集権や治安の維持を理由に、16世紀中頃まで、明と君臣関係を結んだ国に限定して貿易を行う海禁(かいきん)政策を実施しました。これに応じた琉球(りゅうきゅう)は14世紀後半には明に朝貢を行い、東南アジア各国から交易を通じて入手した胡椒(こしょう)、蘇木(そぼく)などを中国に進貢し、中国から入手した中国陶磁等を東南アジアに転売する中継貿易を始めます。東南アジアや中国からの物産が集積する琉球には、日本の商人も集まったことが記録に残っています。このことから、博多遺跡群から出土するタイ産陶磁器の多くは、博多の商人たちが琉球から入手した可能性があります(※)。
この頃のタイ産陶磁器は、ベトナム産陶磁器とともに、東アジアでの流通量が増加し、東南アジアとの交易の玄関口であった琉球だけでなく、博多や対馬(つしま)、九州本島各地、さらには15世紀後半以降に日明貿易の中心となる堺などでも出土します。遺跡の出土品をみると、ベトナム産陶磁器には青花や青磁、白磁などの商品としての器がみられるのに対し、タイ産陶磁器には輸送用のコンテナ容器が多い傾向があります。このことから、当時の日本は、ベトナムには商品としての陶磁器を、タイには陶磁器の中の内容物を求めたことが推測されます。
16世紀後半になると、ヨーロッパ諸勢力の東南アジア進出や明王朝の海禁政策の緩和により、琉球はこれまでどおりの貿易が続けられなくなり、琉球を集積地とした中継貿易は終わりを迎えます。南蛮船は日本にも来航し、鎖国が完成する17世紀前半まで、海外との貿易に関心の高い各地の戦国大名が、直接東南アジア諸国やポルトガルなどとの私貿易にのりだしました。 このようにして日本にもたらされたタイ産陶磁器のうち、シーサッチャナライ窯の鉄絵合子やスコータイ窯の鉢や壺、ハンネラ土器の壺や蓋などの一部は、その後、茶道具の香合(こうごう)や水差し、建水(けんすい)などに転用され、現在まで名品として伝えられているものもあります。記録によると、17世紀初頭には「宋胡禄(すんころく)」(シーサッチャナライ窯の製品が輸出に向けて集積したスワンカローク郡に由来)と呼ばれてもてはやされたことがわかっています。
おわりに
タイにおける陶磁器生産の歴史はまだ解明の途上にあります。たとえば、タイ北部には発掘調査が及んでいない窯が多く、生産の状況はよくわかっていません。
消費地の遺跡から出土する貿易陶磁がどこで生産されたものなのかを考えるためには、窯跡などの生産地で発見される資料が重要です。これから調査研究が進展し、タイにおける陶磁器生産の全体像が明らかになれば、国内の遺跡出土資料のなかからタイ産陶磁器が新たに見いだされる可能性もあります。今後の調査研究の深化が楽しみです。
(松尾奈緒子)※東南アジアと博多の直接交渉があった可能性も想定されています。