古代の度量衡(どりょうこう)
令和5年9月12日(火)~ 11月5日(日)
度量衡(どりょうこう)の「度」は長さ、「量」は嵩(かさ)、「衡」は重さを意味します。度量、度量権衡(けんこう)などともいい、古代からつかわれる、計量に関する制度や慣習を指す用語です。
本展では、奈良時代・平安時代を中心とした度量衡の制度、その単位や計量器を紹介します。現在の尺度と古代の尺度ではどれほどの違いがあるのでしょうか。
度量衡を定めて管理する
日本の度量衡制度の源流は中国にあります。紀元前221年、中国ではじめての統一王朝を打ち立てた秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、諸国を征服したその年、「法度(ほうど)・衡石(こうせき)・丈尺(じょうしゃく)を一(いつ)」にしました(『史記(しき)』秦始皇本紀第六)。それまで国ごとに異なっていた枡(ます)(法度)・秤(はかり)(衡石)・物指(丈尺)、つまり度量衡を統一したのです。計量器を定めることは、中央集権政策のひとつに位置づけられるものでした。
日本では、大宝(たいほう)2(702)年に「始めて度量を天下の諸国に頒(わか)つ」とした記録が残ります(『続日本紀(しょくにほんぎ)』同年三月壬申条)。全国に計量器の様(ためし)(見本)が頒布されたのでしょう。度量衡のそれぞれの単位が定められた古代の法典、大宝律令が完成した翌年のことでした。
律令制下において度量衡を統括したのは大蔵省(おおくらしょう)です。諸国から税として物品が納入され、その管理を担う大蔵省の仕事には「権衡、度量」が挙げられています(養老職員令(ようろうしきいんりょう)33大蔵省条)。ほかにも、都の市場を管理する東西市司(いちのつかさ)、それを監督する左右京職(きょうしき)、また活発な経済活動が行われていた難波(なにわ)を監督する摂津職(せっつしき)といった官司(役所)が度量衡を管理しました。税を管理する場だけでなく、物品を取り引きする場においても、計量を掌つかさどる役人が置かれていたことがわかります。
度量衡を管理する官司には、銅で作った計量器の様(ためし)を配置するよう決められていました。また、年に一度、官私の計量器の検定が行われ、規準に達したもののみ、印が押され、使うことが許される制度でした。しかし、検定印が押された古代の計量器の出土事例はまだありません。このことから、制度として定めても実態はそうではなかったとも考えられます。
延暦(えんりゃく)17(798)年の勅では、諸国の役人が計量器を不正して税を多く取っているとし、大蔵省での計量の検定を徹底するよう命じています(『類聚国史(るいじゅうこくし)』巻八〇)。また、数値や目盛りが記された出土資料や伝世資料などをもとに、当時の実量は算出されていますが、その数値は一定ではなく、これまでに様々な概略値が出されています。
「度」長さをはかる
古代では、一つの単位に複数の分量が定義されることがありました。長さの単位のひとつ、尺には通常の尺の1.2倍とされた大尺があります。土地などの大きいものに限定して用いるよう律令には定められていましたが、天平(てんぴょう)年間(729―749)頃には、長さは大尺を用いることが一般的になっていたようです。
宝亀(ほうき)元(770)年、称徳(しょうとく)天皇の発願で高さ四寸五分、台の径三寸五分の木製の小塔が百万基作られました(『続日本紀』同年四月戊午条)。奈良の法隆寺に現存する小塔の法量をはかると、その平均はそれぞれ約13.2㎝、10.4㎝と大尺の換算値に近く、小さな物に対しても大尺が使用されていたことがわかります。
全国で似たような長さで出土するものが郡符木簡(ぐんぷもっかん)です。国の一つ下の行政単位、郡の役人が出す文書が書かれた木の札は、二尺(約60㎝)程度と通常の文書木簡の倍の大きさで各地から出土します。福岡市内でも元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群(西区)から郡符木簡と思われる長さ50㎝超の木簡が出土しています。