いにしえのデザイン-発掘された文様図鑑-
令和6年2月14日(水)~4月21日(日)
現代日本では、周りを見渡すと自分が様々な人工物に囲まれていることに気づきます。原始・古代の人々がみたものとは、明らかに異なる風景です。
原始・古代の生活の中で、規則正しい文様を目にすることは、さほど多くありませんでした。人々がそれぞれ好みの服を着て、好きな模様で部屋を飾る現代とは異なり、原始・古代の文様はもう少し決まりがあって、特別なものだったようです。当時の人々の目に、文様はどのように見えたのでしょうか。そこに、不思議な力を感じ取ったかもしれません。
考古学において文様は、主に集団差や地域差、時代差を研究するためのものとして扱われます。しかし、そのデザインに込められた想いや願いを読み解くことは、いにしえの人々の心に寄り添うきっかけになりうるのではないでしょうか。今回の展示では、様々な考古資料に残された文様をご紹介します。
自然とともに生きる
今から約5000年前(縄文時代中期)の火焔型土器(かえんがたどき)〈写真2〉に代表されるように、日本列島の様々な時代の土器の中で、縄文土器の装飾性の高さは目を見張るものがあります。縄文土器の装飾は、何らかの祈りや願いを形として表現したものでしょう。中には、イノシシやヘビ、カエルなどの動物をモチーフとした装飾も見受けられ、森や山に対する信仰や、子孫繁栄への願いに関わるとも考えられます。
重要なのは、非常に多くの手間がかかるこれらの装飾が、日常の煮炊き用土器にも施されていることです。日常と非日常、実用と非実用、人と自然が分化していない、縄文時代の精神世界を表しているようにも思えます。
貯蔵への想い
今から約4000年前(縄文時代後期)を過ぎると、縄文土器の装飾性は少しずつ失われていきます。弥生時代以降にはそれが顕著になり、特に博多湾沿岸やその周辺地域などでは、弥生時代~古墳時代前半にかけて文様が少ない土器を一貫して作り続けました。朝鮮半島を通じて大陸の進んだ社会や文化を受け入れてきた当地域では、国家的な権力社会の実用的・合理的な思想に触れる中で、非実用的な面に労力をかけず、機能性を重視する地域性が形成されたのかもしれません。
ただし、今から約2500年前(弥生時代前期)の九州北部では、壺にだけ文様を施すことがありました〈写真1〉。コメ作りを中心とする弥生文化では、秋に収穫したコメを長期間貯蔵する必要があります。貯蔵具である壺は水田稲作の広がりとともに、土器全体の中で数を増していきました。また、有力者の墓に副葬(ふくそう)されることもあり、貯蔵の有無がその人や村の力の大きさの象徴ともなったとみられます。壺にだけ文様が施されるということも、当時の人々の貯蔵に対する特別な想いの表れで、豊かな実りを期待するものなのではないでしょうか。
○と△の魔力
今から約2300年前(弥生時代中期)、九州北部にもたらされた青銅器に、多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)があります〈写真3〉。そのものの形、あるいはそこに鋳出(いだ)された円の文様は、日本列島の人々が初めて出会った人工的な正円です。また、まっすぐな直線は、当時の人々にとって日常的に目にする機会がないため、多数の三角形を重ねた文様も斬新で、呪術的な印象を与えるものだったことでしょう。さらに、それまでは見たこともない金属器の輝きは人々を魅了し、それを所有した有力者のカリスマ性を演出しました。
連続する三角形の文様(鋸歯文(きょしもん))は、その後も多くの鏡に採用されました。今から約1700年前(古墳時代前期)の古墳には、埋葬部(まいそうぶ)の周りに多数の青銅鏡を副葬する例があり、その多くは鏡面を埋葬部の内側に向けることから、邪(じゃ)を払う効果を期待したものと考えられます。鏡に鋳出された連続する三角文にも、邪を払う力があるとみなされ、装飾古墳や盾(たて)などにも採用されていったようです。
王権のシンボル
日本列島の広い範囲に墓の祭祀(さいし)が共有された古墳時代は、祖先をめぐる思想の統一にもとづく統制のなかで、人々が序列化された時代とも言えます。このような中で、有力者の身分を象徴するような文様も広がりました。そのひとつが直弧文(ちょっこもん)〈写真4〉で、古墳副葬品だった鹿角製刀装具(ろっかくせいとうそうぐ)、靫(ゆぎ)や盾の形象埴輪(けいしょうはにわ)、装飾古墳などに採用された複雑な文様です。その管理には、畿内王権が関わったとも考えられています。その文様が記された器物をもつことが、王権とのつながりを表すシンボルともなったのです。
(朝岡俊也)