黒田家名宝展示ふたたび ―甲冑・武芸書編―
令和6年4月9日(火)~6月9日(日)
黒田宣政の甲冑と新続家譜の事績
5代宣政(のぶまさ)の時代は、天下泰平(てんかたいへい)の世であり、現在残る彼の所用甲冑の兜は、室町(むろまち)時代風の復古調(ふっこちょう)タイプの筋兜です。鉢の眉(ま)びさしに獅子噛(しかみ)の浮彫があり、前立(まえたて)を装着する金具も残っています。かつては父・綱政(つなまさ)の兜に倣ならった豪華な金泥塗の前立があったのでしょうか。一方、胴は初代黒田長政の所用した桶側胴(おけがわどう)にあやかった造りです。この彼の短い藩主在任中の事績は、「黒田(くろだ)新続家譜(ぞくかふ)」に記されています。
黒田治之の甲冑と肖像
7代藩主治之(はるゆき)(1752~81)は、11歳のときに徳川将軍家の一門・一橋家(ひとつばしけ)から6代藩主継高(つぐたか)の養子に迎えられた人物で、治之所用の少年用の甲冑が残されています。筋兜(すじかぶと)で鍬形(くわがた)の古風(こふう)な筋前立がつき、胴は萌黄(もえぎ)色の素掛威(すかけおどし)で、杏葉(ぎょうよう)という胸飾りも古風なものです。実家の一橋家から持参したことが、櫃の中に記されていました。いかにも少年用の明るい色合いの甲冑で、兜の吹返(ふきかえし)、前立、籠手など、いろいろなところに黒田家の白餅紋(しろもちもん)が付いています。この紋は黒田家の表紋で、旗指物や船印につくられます。一橋家が武功の家・黒田家へ養子に出す際に、張り切って作った様子がうかがえます。
黒田長政の砲術相伝書
黒田長政は若いころ、個人的に剣術や砲術を学んだことで知られ、特に鉄砲の射撃に優れていました。かれが学んだのは細川忠興(ほそかわただおき)や徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた稲富一夢(いなとみいちむ)という砲術家でした。一夢が長政に出した相伝書(そうでんしょ)「御鉄砲之書(おんてっぽうのしょ)」が残っています。長政は、個人の技術だけでなく、数多くの合戦に参加した実戦の経験から、軍団(ぐんだん)としての鉄砲の運用に優れていました。関ヶ原合戦の時には、石田三成(いしだみつなり)麾下(きか)の猛将(もうしょう)・島左近(しまさこん)の攻撃を、側面にひそかに回した鉄砲隊の一斉射撃(いっせいしゃげき)で止め、撃退(げきたい)したことからもうかがえます。その場面は黒田家に残された関ケ原戦陣図屏風にも描かれています。
福岡藩主の馬術書
また長政は、若槻流(わかつきりゅう)馬術を学びその相伝書も残りますが、それらには馬の乗り方だけではなく、馬の医術(いじゅつ)や飼育方法(しいくほうほう)なども記され、大名として、軍事に必要な、馬についての総合的な研究をしていたことがうかがえます。18世紀の8代藩主の治高(はるたか)(1754~82)は、若い頃に大坪流(おおつぼりゅう)馬術をまなんで免許を得ています。治高は、四国の大名京極家(きょうごくけ)から養子に入り、藩主就任後すぐに亡くなった人物のため、残された資料は少なく、この馬術書は黒田家にとって貴重です。また11代藩主長溥が、養子にきて間もないころ、家臣の馬術師範(ばじゅつしはん)・福山(ふくやま)氏から学んだことがわかる馬術書も残されています。平和な時代でも、大名にはその地位に相応(ふさわ)しい乗馬技術を学ぶことが必須だったことがうかがえます。
黒田家伝来の武芸書
3代藩主光之の時代の武芸書として、彼の息子の誰かが家臣高田氏から受けた豪華(ごうか)な十文字鑓(じゅうもんじやり)の相伝書が伝わっています。光之夫人は、当時幕府から九州の抑(おさ)えと重視(じゅうし)された小倉藩小笠原(こくらおがさわら)家から輿入(こしい)れしており、同藩には当時、幕府にまで名前の聞こえた槍術の名人高田又兵衛(たかだまたべえ)がいました。同時代の剣術書では、光之の四男の長清(ながきよ)が、若いころに家臣・有地(ありち)氏から贈られた新陰流(しんかげりゅう)の絵入りの豪華な免許が残されています。剣技の型を絵で表したもので、全部で10巻の豪華な巻物です。黒田家では藩主や一族は幕府・将軍に認められた武芸を学ぶことが、通例化していたようです。
(又野誠)