戦争とわたしたちのくらし33
令和6年6月4日(火)~8月4日(日)
防空訓練
「国民防空」に関する基本的な法律である防空法は、昭和12年(1937)3月に成立しました。この法律は防空の内容を灯火管制、消防、防毒、避難および救護、監視通信と定めています。太平洋戦争開戦直前の昭和16年11月に改正され、空襲による火災に対する応急防火が義務とされました。さらに、昭和18年10月に再び改正され、火災対策として建物疎開が新たに追加されます。大小さまざまな規模で行われた防空訓練では、敵機の監視から防空警報、灯火管制、防火・消火、防毒、救護など、各種の防空活動を練習しました。
飛来する敵機の目印となるような地上の灯りを少なくするのが灯火管制です。灯火管制は空襲の危険度に応じて警戒管制と空襲管制の二種類があります。訓練の際には、空襲の危険度に応じて、警戒管制時の減光と空襲管制時の遮光を行いました。一般家庭では、照明に黒い布で覆いをかけたり、市販の灯火管制用カバーを購入したりして灯火管制に取り組みました。
防空訓練では空襲によって生じる火災の予防や消火も行います。本格的な消火作業は消防組や警防団の役割であるため、一般国民は初期消火や火災発生時の延焼を防止することを目的とした防火を担当することになりました。実際の訓練では空襲前の天井板や障子の取り外し、バケツリレーなどが行われました。
毒ガスに対する訓練も実施されます。毒ガスは大正14年(1925)に国際条約で使用が禁止されていましたが、日本では毒ガス弾が投下されることを想定し、外気を遮断した防毒室の設置や、防毒マスクの着用が呼びかけられました。
福岡大空襲と戦後の街
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、米軍による日本の都市への空襲が本格化しました。福岡市は九州地方の行政、商業の中心地であることから空襲の目標にされます。6月19日、マリアナ諸島を出発した米軍機220機は、午後11時から未明にかけて、天神地区と博多地区を目標として大量の焼夷弾を投下し、市街地は焼け野原になりました。『福岡市史』によれば、被災面積は3・77㎢、被災人口は6万599人、死者902人、 負傷者1078人、行方不明者244人でした。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。
戦局は終戦に向かっていき、8月15日にポツダム宣言の受諾が国民に伝えられます。9月2日には連合国との降伏文書への調印が行われ、戦争は終わりました。昭和21年1月、福岡市は復興部を設置し、新たな都市計画を決定します。ここから街の復興は本格化しますが、事業は戦後の経済的混乱で規模を縮小せざるを得なくなりました。
近年、米軍とその関係者が撮影した昭和20年代の写真が博物館に寄贈されました。これらの写真の中には、上空から見た市内各地やがれきが残る市街地を撮影したものがあります。戦後しばらくの間は、街に戦争の影響が残っていたことがうかがえます。街の復興には数年の歳月が必要でした。
(野島義敬)