博多祇園山笠展23
令和6年6月11日(火)~7月28日(日)
記録にみる江戸時代の山笠
江戸時代の博多祇園山笠について、同時代に編さんされた地誌(ある地域の自然・歴史・文化などの事象を記した書物)に記述が見られます。
福岡藩の儒学者である貝原益軒(かいばらえきけん)が、藩の許可を得て編さんし、宝永(ほうえい)6年(1709)に成立した筑前国の地誌に「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」【資料2】があります。同書では、以前山笠の数は12本であったが、いつの頃からか数が減って6本となったこと、京都の祇園祭と比べて規模が大きく、毎年異なる飾りが作られることが記されるとともに、祭りが行われる日には、城下の武士や国中の人びとだけでなく隣国からも見物客が博多を訪れ、町中が大変混雑している様子も書き記しています。
江戸時代後期、博多中島町(なかしままち)(福岡市博多区)の商人だった奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)が編さんした「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」【資料3】は246点もの挿絵が織り込まれている点が特色で、博多祇園山笠については山笠を櫛田神社に奉納する「櫛田入り」の場面が描かれています。
また、地誌以外にも山笠に携わった人物や商人、武士が書き残した記録や日記からも祭りの様子をうかがい知ることができます。「山笠番付」【資料4】は、山笠の人形製作に携わった人形師・小堀(こぼり)氏の関係者が、天明(てんめい)元年(1781)から文久(ぶんきゅう)3年(1863)までの山笠の標題を記録したものです。「山笠番付」には標題に加えて、個人的見解として山笠の出来不出来が記されるとともに、年ごとに台風や地震を始めとする災害や異国船の来航や疫病の流行などの出来事が記述され、祭りが行われた時代の状況がうかがえます。
博多中島町の曲物細工商・庄林半助(しょうばやしはんすけ)が明治時代に著した、江戸時代後期の福岡・博多の見聞集「旧稀集(きゅうきしゅう)」【資料5】には、文化(ぶんか)3年(1806)の項で中央部に大きな穴があり向こう側が透けて見える山笠が絵入で紹介され、「奇妙珍しき山笠なり」と記されています。
江戸時代後期から幕末期にかけて福岡藩の要職を務めた杉山尚行(すぎやまなおゆき)の日記【資料6~7】には、例年6月15日は役所での務めが免じられていることに加え、自身や家族が山笠見物に出かけた記述が散見され、武士も祭りを楽しんでいた様子が記されています。
黒田家に伝わった山笠図
山笠の標題は、毎年、流ごとに新たなものが決められ、飾り付けが行われます。江戸時代は、当番町が前年もしくは前々年から話し合いを重ねて決めていたと言います。また、宝永5年以降は、毎年立てられる6本の山笠のうち1、3、5番は合戦物など勇壮なテーマとし、2、4、6番は女性が登場する物語など優美なテーマとする決まりごともありました。
標題が決まると、山笠の設計図となる絵図が作成されました。この絵図は、藩から山笠を立てる許可を得るためにも必要でした。当番町は、まず下絵図を作り町奉行所に提出、許可が下りると本絵図を2点作成し、藩主と年行司(ねんぎょうじ)(町の自治を統括する役職)に献上しました。黒田家には、この過程で作られたと考えられる山笠図【資料10~23】が伝わっており、江戸時代の豪華絢爛な山笠を現在に伝えています。
(髙山英朗)