庚寅銘大刀(こういんめいたち)
令和6年7月2日(火)~ 10月6日(日)
古墳時代以前の文字資料
日本列島内で文字が積極的に使われるようになるのは、日本が国家体制を中央集権的に整備する七世紀以降と考えられています。しかし、文字はそれ以前も列島内に少なからず存在していました。
漢字の伝来を物語る資料は約2千年前の遺跡から出土する銅鏡や銅銭です。当館所蔵の国宝「金印」もその一つといえるでしょう。ただし、弥生時代に中国から日本列島に入ってきた文字は、記号・文様の一種として捉えられていたようです。中国の鏡を模倣して朝鮮半島南部や日本列島で製作された仿製鏡(ぼうせいきょう)は、文字がくずれ意味をなさない銘となることが多く、製作に携わる工人や支配者が文字を認識できていなかったことがうかがえます(図3)。5世紀、古墳時代中期後半になると、日本における本格的な文字使用を示す銘文入り刀剣などが現れます。日本製の鏡でも文字表記がみられますが、その製作に関わったのは主に渡来人とみられ、文字を扱う層は限られていました。続く6世紀も文字資料は少なく、列島内の文字使用の実態はまだわからないことが多くあります。
糸島半島・元岡の古代
大刀が発見された古墳は直径18メートル程の円墳で、横穴式石室という追葬ができる構造です。大刀は棺(ひつぎ)が納められる玄室(げんしつ)に副葬されていました。7世紀初頭から中頃までの須恵器が出土したことから、その数十年ほどの間に、この古墳では追葬・祭祀が行われたようです。耳環やガラス玉などの装身具の残り具合からは、5人程度が埋葬されたと考えられています。ただし玄室は、追葬の際に片づけられたり、後世に荒らされたりしたため、副葬品の残り具合はよくはなく、大刀埋葬の詳細な時期はわかっていません。
古墳時代の終わり頃である6世紀後半から7世紀前半は、博多湾岸に官家(みやけ)が設置されるなど、ヤマト政権の九州支配が強化されていく時期です。糸島半島においても、推古(すいこ)10(602)年、聖徳太子の同母弟である来目皇子(くめのみこ)が、撃新羅将軍(げきしらぎしょうぐん)として糸島半島にあたる「嶋郡」に駐屯したという『日本書紀』の記事などから、この地が政治的、軍事的に重要な場所であったことがわかります。
一方で、当時は湾入した海に面していた元岡地区の古墳や集落跡からは、鍛冶道具をはじめ、朝鮮半島とのつながりを示す資料が見つかり、在地の豪族が依然として対外交易や外交を担っていたことがわかります。ほかにも山陰や瀬戸内地域などからもたらされた多様な遺物があり、この地域の有力者は、広範囲の地域と海を通じた交易を行っていたようです。
庚寅銘大刀が出土した古墳も、馬具や鉄鏃など多様な遺物があり、中でも銅鈴は古墳時代の鈴としては国内最大級のものです。庚寅銘大刀は、百済、もしくはヤマト政権から、この地域の有力豪族に対して下賜され、後継者の墓に副葬されたものと考えることができます。文字が美しく輝くこの大刀は、政権中枢から地理的には遠く離れていながら、日本列島の中で存在感を示すこの土地の有力者の姿を今に伝えてくれます。
(佐藤祐花)