平成30年1月10日(水)~3月4日(日)
3、「攘夷」の行方
3. 竹図
江戸幕府は、嘉永7年3月の日米和親条約を皮切りにイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を結び、安政5年には、朝廷の勅許を得ないまま前述の4ヶ国にフランスを加えた5ヶ国と修好通商条約を締結しました。この条約は日本に関税自主権が認められず、相手国の治外法権が認められる不平等な内容であったため、国内で反発が強まりました。大老・井伊直弼(いいなおすけ)は反対派を一掃したものの(安政の大獄)、万延元年(1860)に水戸藩・鹿児島藩の浪士らによって暗殺されました(桜田門外の変)。
これ以降、国内の政局は、国力充実を優先し将来的な条約改正を目指す公武合体派と、条約破棄のため武力行使も辞さない尊王攘夷派(尊攘派)の対立を軸に展開していきますが、共通の課題は不平等条約の破棄で、これこそが「攘夷」を意味していました。
文久2年以降、三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊攘派の公家が長州藩の尊攘派と結び付き、朝廷を動かすようになりましたが、孝明天皇(こうめいてんのう)の意を越えた行動を繰り返したため、政局はさらに混乱しました。そこで文久3年8月18日、孝明天皇の意を受けた鹿児島藩・会津藩を中心とする公武合体派が尊攘派を京都から一掃し、秩序と指示系統の回復が図られました(八月十八日の政変)。
長州藩の尊攘派は元治元年(1864)7月、京都での勢力回復を目指して上京し、禁門の変を起こしましたが失敗。翌8月には関門海峡封鎖の報復として、下関でイギリスをはじめとする四ヶ国連合艦隊の攻撃を受けました(下関戦争)。このような状況下で朝廷と幕府は長州征討令を出し、西国諸藩は長州出兵(第一次長州征討)を命じられましたが、長溥は国内戦争を回避するため、長州藩への寛大な処分と長州征討の中止を征長総督らに求め、長州藩への周旋(しゅうせん)活動を藩内の尊攘派に行わせました。幕府や諸藩から長州藩への内通を疑われ、一旦は活動を中止したものの、月形洗蔵(つきがたせんぞう)らが長州藩の尊攘派を説得し、当時長州に滞在していた三条実美ら尊攘派の公家5名を福岡藩に受け入れて太宰府に移転させ、戦争回避へと導きました。
この結果、福岡藩内では功績のあった尊攘派が勢力を拡大しましたが、次第に藩主長溥の意向を軽視した行動を繰り返したため、藩を二分する対立が生じました。慶応元年(1865)4月、幕府が長州再征を決定すると、その対応を巡って対立がさらに深刻化しました。長溥は、ついに尊攘派を処分する方針を固め、同年10月に処分を下しました(乙丑(いっちゅう)の獄)。これにより福岡藩は多くの人材を失うこととなり、結果的に明治維新の流れに乗り遅れることとなりました。
4、そして新しい時代へ
慶応3年10月、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還の上書を提出し、12月には王政復古の大号令が出され明治新政府が成立し、翌4年正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れました。乙丑の獄で尊攘派を処分した福岡藩は苦しい立場に立たされたため、同年3月に尊攘派を赦免し再登用して明治新政府に従うことを決め、戊辰戦争では江戸周辺や東北に出兵し戦闘に参加しました。
明治2年(1869)2月、長溥は隠居し、養嗣子・黒田長知が家督を継ぎました。長知は、同年6月の版籍奉還の後、福岡藩知事に任命されましたが、同3年7月に発覚した太政官札贋造事件により同4年7月に免職され、福岡藩は事実上廃藩となりました。(髙山英朗)