戦争とわたしたちのくらし29
令和2年6月16日(火)~8月10日(月・祝)
食のあれこれ
戦争を継続するため、食料も軍事関係に優先的に配分されました。人びとのくらしの中で食料が不足するようになり、さまざまな食料の価格が上がっていきます。政府は、これに対応して、昭和14年(1939)9月に食品を含めた物品の価格、各種サービスの料金などの最高金額を設定し、それ以上の金額上昇を禁止することを発表しました。翌月には価格等統制令が公布・施行され、法的に物価の維持が目指されました。たとえば、昭和17年に福岡市食料品小売商業組合が発行した『福岡県食料品卸小売最高販売価格表』によれば、薄力粉は1キログラムあたり32銭とされています。
生活に必要な米は、昭和15年から配給制となりました。配給制は、一日あたりに必要な量が設定され、その分量だけを購入できる制度です。また、昭和15年には砂糖、17年には味噌、しょうゆといった調味料が切符制になりました。この他、食料品で切符あるいは配給の形で提供された食料品は、酒、食肉、食料油、塩、菓子、パン、鶏卵、小麦粉、乾麺などでした。昭和19年には野菜・果物や魚介類も統制の対象となっており、食料事情が悪化していたことがうかがえます。人びとは、不足する食料を、公定価格以上で取引しているヤミ市などで補っていました。
空襲と住まい
住宅と生活用品は、平時から戦時へ移行する中で大きく変化しました。
ひとつは、空襲への対応による変化です。昭和時代のはじめから空からの攻撃に備え、防空演習が行われましたが、防空対策には家庭で行うべきものもありました。家から灯りが漏れることを防ぐため、窓を覆う黒布や内部に塗料を塗って光を下方向のみに制限した電球、電球の上からかぶせるカバーが使用されました。また、焼夷弾等が投下された際に速やかに消火作業に移ることができるよう天井板が外されたり、隣家へ火が移らないように建物自体を計画的に間引くことが行われたりしました。
もうひとつは、軍需産業に必要な金属類の民間からの回収の影響です。昭和13年(1938)頃から自主的に金属類の供出を行う動きがありました。16年には金属類回収令が制定され、法的に金属資源の回収が行われました。回収されたのは、鉄、銅、黄銅などの銅合金で、のちにアルミニウムも追加されました。家庭から金属製の鍋や釜が回収された他、寺院の梵鐘、公園の銅像なども回収されました。回収された金属の代わりに、陶器や硬質ガラス、木材などの素材を用いたさまざまな代用品が登場します。釜や、アイロン、湯たんぽ、ポンプなどが陶器で作られました。
戦時のお金事情
戦争の継続に必要な費用は、主に税金と国債によってまかなわれていました。内閣情報局によれば、昭和16年(1941)度における臨時軍事予算総額は223億3500万円で、その財源は税金その他が28億7500万円、国債収入が194億6000万円とされており、戦費における国債の比重が大きかったことがわかります。国債の購入は国民の責務であるとして、昭和13年頃から自主的な貯蓄が奨励されていましたが、昭和16年には国民貯蓄組合法が制定され、貯蓄は義務化されました。戦争末期には、国民の所得総額の75パーセントが税金と国民貯蓄に使用され、生活に使用できるのは残り25パーセントと試算するものもありました。
戦争の影響は、お金そのものにもあらわれました。兵器に利用可能な金属が回収されるようになり、昭和13年から少額政府貨幣の10銭、5銭通貨の材料がニッケルから銅合金に変更されました。さらに、銅も回収されるようなった昭和15年にはアルミニウムに変わります。昭和19年にはアルミニウムも航空機の材料として必要性が増し、錫(すず)が使用されるようになりました。また、日本銀行券として、10銭・5銭紙幣が発行されました。これらの少額貨幣・紙幣は、戦後の物価の高騰から使われなくなりました。(野島義敬)