戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” ─1550年代の動乱
令和2年7月14日(火)~ 9月13日(日)
三 大友氏の勢力拡大
大友氏は、少弐氏ないしは大内氏が筑前国を支配した時代から、博多湾沿岸に3つの拠点を有していました。博多の海側に位置する息浜(おきのはま)(陸側は大内氏もしくは少弐氏が支配)に加え、東の粕屋郡(かすやぐん)香椎郷(かしいごう)(福岡市東区)、西の志摩郡(しまぐん)(福岡市西区・糸島市)と、博多湾の両翼を領有しました。それぞれに立花城(たちばなじょう)と柑子岳城(こうじだけじょう)を築き大内氏の筑前支配を牽制しました。
義長が大内家の家督を継承すると、大友・大内両氏の関係は対立から融和に転じ、筑前における大友氏の権限は、旧来の三拠点を越えて大内氏の支配領域に拡大していきました。単純に大内氏から大友氏への交代ではなく、大内氏の支配が継続する中で、大友氏の権限は大内氏の支配領域である那珂(なか)・席田(むしろだ)・早良(さわら)・怡土郡(いとぐん)等に及び、大内氏家臣が保有する所領でさえ大友氏が保障する事例がみられるようになります。
四 大内氏の滅亡~厳島の戦いから義長の自害
天文24年(1555)10月、義長を擁立した陶晴賢が毛利元就(もうりもとなり)との厳島(いつくしま)の戦いで敗死すると、大内氏の分国各地で戦乱が惹起し、大内氏の支配は急速に危機に瀕しました。筑前においても「筑前表錯乱(ちくぜんおもてさくらん)」という状況となります(図3)。2年後の弘治(こうじ)3年(1557)4月には、義長も元就に攻められ、自害しました。図4は、義長が死のわずか4日前に最後まで付き従った家臣に対し、その忠功をねぎらうために与えた知行充行状(ちぎょうあてがいじょう)です。通常、主従制の根幹となる土地の給与は大振りの竪紙(たてがみ)に右筆書(ゆうひつがき)で書かれますが、本文書では、小さな料紙に直筆(じきひつ)で書かれています。義長の切羽詰(せっぱつ)まった状況がうかがえます。
五 大友氏による北部九州平定~博多の焼き打ちと復興
大内義長が治世わずか5年で倒れ、大内氏が名実ともに滅びると、大友義鎮は即座に挙兵し、大内氏が治めていた筑前・豊前(ぶぜん)の接収に乗り出しました。この時、秋月(あきづき)氏や筑紫(ちくし)氏等、大友氏に抵抗する勢力が挙兵し、筑前・豊前・肥前(ひぜん)3ヶ国では戦乱が激化します。この過程においてすでに弱体化していた少弐・渋川両氏は歴史の表舞台から姿を消します。永禄2年(1559)には、肥前勝尾城(かつのおじょう)(佐賀県鳥栖市)の筑紫惟門(これかど)が大友氏の支配下にあった博多を襲撃し、焼き打ちを行います。しかし、大友義鎮は同年末までに敵対する勢力を圧倒し、以前から治めていた豊後(ぶんご)・筑後(ちくご)・肥後(ひご)に加え北部九州6ヶ国を支配下に収めました。
戦後、大友氏による博多復興が行われ、御笠川(みかさがわ)の流路を変更し南側に房州堀(ぼうしゅうぼり)が築かれ、博多は北を海、東西を川、南を堀に囲まれた防御性を高めた都市に変貌しました。
大友氏が北部九州を一元的に支配する体制は、一時、毛利氏の九州進出や国衆(くにしゅう)の蜂起が見られますが、天正(てんしょう)6年(1578)末まで続いていきます。(堀本一繁)