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No.534

企画展示室1

筑前の女性文化人3―二川玉篠の絵画をゆかりの人々―

平成31年4月23日(火)~令和元年6月16日(日)

3、玉篠と並ぶ女性文化人たち

 さて、玉篠と同じ時代を生き、交流のあった武家の女性文化人に、南冥の孫の少琹(しょうきん)(友(とも))と、南冥の弟子で漢詩家の秋月藩儒学者原古処(はらこしょ)の娘・原采蘋(はらさいひん)(猷(みち))がいます。

 一番年長の少琹は寛政(かんせい)10(1798)年に生まれ、南冥の子で儒学者・漢文にすぐれた昭陽の娘です。幼いころから漢学や詩文の才能を現し、9歳の時には、秋月(あきつき)藩が開いた大宰府天満宮の書画会で出品した書が秋月藩主の目に留まり、ご褒美をもらったほどでした。また小琹の絵画に、父が賛を記した作品も残されています。成長して昭陽の弟子で、医師の三苫源吾(みとまげんご)と結婚し、亀井学(がく)と称される学問と、夫の医家や私塾を守りました。絵画作品では資料32の天保(てんぽう)2(1831)年、彼女が34才のときに書かれた「詩画巻」は当時の文人好みの竹や蘭などを題材とした画材を網羅(もうら)しています。また幕府の長崎奉行も,彼女の絵をわざわざ注文したほどでした。

 原采蘋も寛政10年に生まれ、幼いころから漢詩文の才能を見せました。兄弟と比べ体の丈夫な人だったため、成長してから、隠居(いんきょ)した父に連れられて九州の日田(ひた)や長崎、中国地方や上方(かみがた)を旅し、各地で優れた漢詩の才能を称賛されています。父の死後には江戸に上り、関東各地を巡りながら学問を続け、また私塾を開いて母を迎えることを希望しましたが、当時の家督(かとく)制度から藩に許可されず、故郷に帰り最後は筑前山家(ちくぜんやまえ)の塾で子弟の教育に当たりました。采頻は父同士の縁で幼い時から小琹と親しく、また玉篠との交流を示すものに、彼女の菊の絵に采頻が賛を添えた作品があります。

4、相近没後の玉篠ゆかりの人々

 二川相近には、国学の弟子に石松元啓(いしまつもとあき)、書道で娘・鶴の夫として藩医の家から相近の養子となった友古(ともふる)が有名です。また和歌の弟子にも、福岡商人の大隈言道(おおくまことみち)や、武家の野村もと・貞貫(さだつら)夫妻がいました。藩主が11代長溥(ながひろ)となって3年後の天保7(1836)年、相近は70歳で死去しますが、もと(後の望東尼(ぼうとうに))の「向陵集(こうりょうしゅう)」にはその死を聞いた直後の、嘆きの和歌が記されています。相近は福岡の円応(えんのう)寺に葬られ、その碑文は、藩の儒学者・櫛田駿(くしだしゅん)が起草していました。また二川相近の評伝を石松元啓、藩主側近(そっきん)で友人だった梶原景翼(かじわらかげすけ)が記しています。

 二川家を継いだ友古は相近一代限りだった書道方の家を無事継ぎました。また友古の後を継いだ相遠(すけとう)は野村もとの義理の息子にあたる人で、玉篠(瀧)はその夫人として、以後22年ほどの家庭生活をおくり、慶応(けいおう)元(1865)年61歳で生涯を終えました。また亀井少琹は安政(あんせい)4(1857)年、采蘋も同6年に死去します。 

 しかし江戸時代後期の女性文化人たちの作品や業績、その逸話は、近代以降、今も語り続けられています。(又野 誠)

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