No.441
企画展示室4
平成26年12月9日(火)~平成27年2月22日(日)
では、発掘調査からはどのような情報が得られるのでしょうか。発掘現場では埋葬方法・埋葬姿勢・副葬品の有無・遺体への意図的な改変・一緒に葬られた人たちの関係など、亡くなった人を埋葬した側の人々、つまり故人が属していた集団が備えていた様々な情報を得ることが可能となります。
![]() |
西区桑原飛櫛貝塚 縄文時代の土坑墓 |
続く弥生時代には様々な形態の埋葬が行われましたが、北部九州の広い地域では、土器に遺体を納めて埋葬する「甕棺墓」が盛んに行われました。甕棺墓は列状に埋葬されたり、顕著な墓群を形成するなど葬送の方法に社会的な構成が反映されるようになります。また青銅製品などの威信材(いしんざい)を副葬される人も出現し、葬られた人々の間に「社会的差異」が生じていたことが読み取れます。
博多区の金隈遺跡では、狭い尾根上に三〇〇基以上の甕棺墓と一〇〇基以上の土坑墓や石棺墓などで構成された集団墓が発見されました。弥生時代の前期末から後期にかけて約五〇〇年程度の期間に営まれた墓からは一三六体の人骨資料が発見されました。これらの分析から遺体の年齢と使用される甕棺のサイズに関連性が確認され、人骨の遺存していない甕棺墓を小児棺と成人棺に分類する際の指標が追認されました。しかしながら、乳児以下の埋葬については遺跡内では確認されていません。集団の構成員として認知され、共同墓地への埋葬が認められることに年齢などの「決まり」が存在していたことが推測されます。また、骨折したあと完治した痕跡のある熟年女性の人骨も確認され、重傷者であっても生活できる社会体制が形成されていたことも推測できます。
![]() |
早良区西新町遺跡 甕棺墓埋葬礼 |
この他、弥生時代には一般的な埋葬として木棺墓や土坑墓などが使用されました。集団構造の複雑化に伴い、墳丘墓のような特定の集団を埋葬するためだけに築造したと考えられる遺構も見られるようになります。
![]() |
南区卯内尺古墳 石棺内人骨出土状況 |
南区の卯内尺古墳群は5世紀代の古墳群であり、小型の低墳丘を伴う4号墳から箱式石棺に葬られた四体の人骨が発見されました。石棺は長さ1.5m×幅0.4mの狭小なもので、棺底には礫が敷き詰められていました。出土した四体の人骨は同時に埋葬されたものではなく、人が亡くなった毎に、追葬されたことがわかっています。最初に埋葬された遺体がほとんど腐朽した頃に次の遺体が埋葬されていますが、その際に最初に埋葬された人骨は石棺内の脇に寄せられていました。そうして次々と埋葬が行われた状況が復元されました。このように埋葬された人骨を、埋葬後に動かしたり意図的に毀損(きそん)することが古墳時代にも行われていたようです。卯内尺古墳群の場合は単に狭小な埋葬施設であることから遺体の整理が行われたのかもしれませんが、このような遺体への改変行為は死者の再生を阻止する儀礼の一種であると捉えられます。