平成27年4月28日(火)~平成27年6月28日(日)
銅剣と把頭飾(野方久保遺跡) |
野方久保(のかたくぼ)遺跡
平野の北西に位置する遺跡で、67基みつかった甕棺墓のうち2基に銅剣が副葬されていました。いずれも中期前葉 (紀元前2世紀) です。このうち5号甕棺の銅剣には把頭飾(はとうしょく)がともないます。剣の柄(大部分が木製のため腐って残らない)の端に取り付ける青銅製品です。装飾であるとともに、剣を突くときの威力を増す重りの役目がありますが、銅剣にともなう頻度は低く、選ばれた戦士のアイテムと考えられます。
銅剣、銅釧、石剣、鉄矛、鉄剣、鉄刀 (東入部遺跡) |
吉武遺跡群よりも約2km上流に位置する遺跡で、甕棺墓149基を含む200以上のお墓がみつかりました。中期初め (紀元前3世紀) の甕棺墓や木棺墓に銅剣の副葬が2例、中期前葉(紀元前2世紀)の甕棺墓に銅釧の副葬がありました。銅釧(どうくしろ) は円環を10個重ねて腕飾りとしたものです。中期の中葉から後葉(紀元前1世紀前後)には、墓群を溝で区画した墳丘墓が複数営まれるようになります。そのうちのⅠ区墓は南北15m、東西13mほどの区画墓で、内部に25基以上の甕棺や木棺墓があります。その副葬品は鉄製品に変化しており、剣、矛、刀などがみつかっています。
銅矛、銅剣、把頭飾、鉄戈(岸田遺跡) |
東入部遺跡よりさらに約1km上流、平野が最も狭まる場所に位置する遺跡で、現在の早良区長峰(ながみね) 周辺になります。弥生時代の生活圏では早良平野の最奥地になります。甕棺墓78基を含む86基の墓がみつかっています。このうち中期初めから前葉(紀元前3~2世紀)の甕棺墓や木棺墓5基の副葬品として、剣、矛、把頭飾といった青銅器9点と、翡翠製勾玉、碧玉製管玉の首飾りがみつかっています。早良平野では吉武遺跡群に次ぐ青銅器の集中で、中期初めの甕棺墓の一つには、矛、剣、把頭飾がセットで副葬されていました。この把頭飾や他の甕棺墓の銅剣には、朝鮮半島とは異なる鋳造技術や形態のものも含まれており、日本列島に青銅器が流入する早い段階から北部九州での青銅器生産も本格化することを物語っています。
中期後葉(紀元前1世紀)の副葬品をもつ墓は鉄戈がみつかった甕棺1基のみですが、この鉄戈(てっか) は今のところ福岡市で唯一の発見であり、貴重なものです。
岸田遺跡は海から遠く、平野の奥まった位置にありますが、早良平野から東の福岡平野南部や南の佐賀平野に移動する交通の要衝にあります。両地域は初期の青銅器生産がみつかっている地域であり、青銅器の流通を考えるうえでも重要な発見になりました。
「奴国の時代」の早良
初期の青銅器が集中する早良平野ですが、青銅器の生産はあまり発展していません。朝鮮半島のほか、福岡平野や佐賀平野で作られた青銅器が多いようです。周辺の青銅器生産地との立地関係において優位であった早良平野に多くの青銅器が集まったと考えることができます。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)になると、中国に由来する銅鏡や鉄器などが日本列島に流入します。これは、漢帝国の勢力拡大にともない朝鮮半島北部に設置された楽浪郡(らくろうぐん)
を窓口とする新たな対外交渉によるものです。福岡平野と糸島平野のこの時代のお墓には中国鏡を何十面も含む隔絶した質と量の副葬品をもつ遺跡がみつかっており、それぞれ、「奴国(なこく)
」王墓、「伊都国(いとこく)」王墓と考えられています。この時代から、北部九州では、副葬品の中国鏡の大きさと数量などに被葬者の身分があらわれる階層システムに変化します。
早良平野では吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡で、長軸の長さが20mを越える墳丘墓とその内部で30基以上の墓がみつかっており、その一部に銅剣、把頭飾、鉄剣、鉄刀、中国鏡などが副葬されています。先に紹介した東入部遺跡や岸田遺跡の中期後葉の墓よりも高位ですが、周辺地域でみつかっている最高位の墓に比べると劣っています。対外交渉のあり方が大きく変化する紀元前1世紀から福岡平野と糸島平野の勢力が大いに力をもち、後の魏志倭人伝にでてくる「奴国」と「伊都国」を形成すると考えられますが、早良平野の勢力は主導権をもつにいたらなかったようです。
早良平野は中期初め(紀元前3世紀)に大きなピークがあり、北部九州における「王墓」や「国」の原型を生み出したと考えられてきました。しかし、その後は決して抜きんでた勢力ではなく、早良は衰退したのでしょうか。見方を変えると紀元前3世紀だけが際立っているともいえます。この時代の階層や「国」の構造については慎重に検証する必要があるでしょう。(森本幹彦)