戦争とわたしたちのくらし30
令和3年6月15日(火)~9月5日(日)
代用品の奨励
戦争の勃発と貿易の縮小、物資、資源の軍需産業への優先的配分によって、生活に必要な物資の入手が困難になると、代用品の使用が呼びかけられるようになりました。戦時期の代用品は、戦争の影響で利用が難しい素材を、それに代わる素材に置き換えたものを指します。国全体の資源や人員を総動員して行う戦争となった第一次世界大戦(1914~1918)の際、ドイツが資源節約のため代用品を用いたことは、日本でも知られていました。
日中戦争が始まって以降、綿花・羊毛などの繊維資源、鉄・銅などの金属資源が不足することが予想され、これに対応する代用品の使用が呼びかけられました。繊維資源については、スフの積極的利用がすすめられます。金属資源の節約のため、陶器や木材、竹による代用がはじまりました。釜、アイロン、湯たんぽ、金ボタンなどが陶器で代用され、缶詰に代わって陶製の「防衛食」容器も考案されました。金属の代わりに竹で作られたヘルメットも残されています。
代用品利用の呼びかけは、日中戦争開始から太平洋戦争開始前後まで盛んになされていましたが、戦局が悪化し、モノ不足が深刻化するにつれて少なくなります。銃後の人びとは、代用品で作られた既製品に代わり、身の回りの品物などを再利用して必要なものを手作りするようになったのです。
戦後のモノ不足
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)は、モノ不足が深刻化していました。6月19日の福岡大空襲の後に、投下された焼夷弾の部品を貴重な金属資源として持ち帰った人もいました。同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印し、戦争は終わりました。終戦後もモノ不足は続きます。人びとはヘルメットを鍋に改造したり、落下傘の紐を再利用したりするなど、比較的物資が残存していた軍用品を生活に使用しました。
令和2年度、博物館に終戦後の福岡の様子を記録した写真が新たに寄贈されました。昭和20年末から22年にかけて板付基地(現 福岡空港)に駐屯した米軍兵士が撮影したものです。基地内外の写真の中には、基地内の廃材を抱えて帰る人びとの写真があります。また、雑餉隈(ざっしょのくま)にあった九州飛行機の工場の写真からは、軍用航空機の部品が数多く残されていたことがわかります。昭和21年2月に撮影された福岡市街地の写真は、空襲で建物が焼失した場所が空き地のままになっている様子がうかがえます。被害を受けた街や人びとのくらしの復興には、なお多くの時間が必要でした。 (野島義敬)